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    院長の独り言29(戦)

    2017年6月11日
    By sakaemachi-staff
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    皆さん,おはようございます!!

    札幌市東区にある栄町消化器・内視鏡内科 またまた院長の佐藤 龍です。

    ブログを見てくださっている方々に感謝です。

    最初はスタッフで順繰りにブログを更新する予定でしたが,いつの間にか院長の独り言になってます。時々登場するスタッフの独り言??を是非お楽しみにしてくださる方々のお声も頂戴します。

     

    院長もブログを始めたのが2017年今年の4月栄町消化器・内視鏡内科クリニックがオープンしたころからなので,まだまだ2か月ちょっとの初心者です。

     

    クリニックのブログは医療関係の記載が多いかと思いますが,うーん,それでは面白くない。

    医療者として患者さんの「病気」をみるだけではなく,「患者さん個人個人」をみているつもり(おこがましいですが),少なくとも背景を知りたいと思っています。ストレス社会になっているため,ストレスに関係した消化器内科の病気も増えていると以前のブログでも書かせていただきました(例えばFD:機能性ディスペプシアや,IBS:過敏性腸症候群)。つまり胃が痛い,下痢をするだけでは病気が絞り切れないことも多々あるので,私の外来を受診してくださった患者さんの中には,いろいろ病気とは関係ないことも聞かれたかと思います。

    患者さん側からすると,ここがどんな病院やクリニックで,担当してくれる医師や看護師はどんな人だろうと気になるのではないかな,と院長の人となりを知ってほしいかなと思い,趣味や日常の出来事も書くようになりました。

     

    と,いうわけで(院長!前置きが長いですとスタッフに突っ込みをいれられそうです)今日は休日でもあり,院長の好きなことのお話,ですが,共感できるという方と,ナニこれ全然わからないという方に大別されるかもしれません。

     

    以前のブログでも書かせていただきましたが,院長は大の歴史好き,自称歴史オタクです。特に戦国時代,明治維新はたまらないですね。時代の節目にそれぞれの戦国武将であったり,志士たちがどのように考え,感じ,そして行動してきたのかを知る。

    今日はそんな中でも戦国時代のお話

     

    元来戦争は数で勝負というところもあり,大人数で少人数を打ち破るというのが定説で,少人数の場合は城にこもって籠城戦に持ち込み,他からの援軍を待つ,兵糧がつきるのを我慢大会するというのが一般的です。

     

    そんな中皆さん,少数の軍勢で大軍勢に立ち向かい,そして勝利を収める合戦をいくつご存知ですか?

     

    教科書にも載っている有名な「桶狭間の戦い」

    少数の織田信長(約2,000人)が豪雨の中,今川義元(約25,000)を桶狭間で奇襲をかけ,大将今川義元を打ち取った戦いですね。うつけものと言われていた織田信長が夜間,部下に前相談なく,熱田神宮から一騎かけだしたことで有名です。情報をうまく整理し,自分で判断して,単独行動にうつす,みかたによって独裁者ですが,強いリーダー的な存在を映し出しています。

     織田家家紋

     

    でも,あまり知られていませんが,戦国時代にはもっと面白い戦いがあります。

    まず「厳島の戦い」

    周防長門を治めていた大内氏が配下の陶 晴賢に謀反を起こされ,滅ぼされます。大内氏に属していた毛利元就との不仲で,陶晴賢が大軍勢を率いて(約20,000人),毛利氏を攻めてきます。小国であった毛利氏は両川(吉川,小早川氏)を入れても約5,000人。そこで陶 晴賢を厳島におびき寄せます。そして暴風雨の中,村上水軍を味方につけた小早川隆景(毛利元就の三男)が,陸の反対側に上陸し,奇襲をかけて陶氏を打ち破った戦いです。

    これは毛利元就が敵方,陶晴賢の性格を読み,計画的に厳島に誘い込んで,嵐が来ることも予想し,まさかこんな嵐の中を船で上陸するはずないという裏をかいての大勝利です。毛利元就は織田信長とは異なり,知略の限りをつくして,さらに,息子たちをはじめ味方を増やし,それぞれの性格,特徴,得意な分野を見抜いて,適材適所に配置作戦を立てる人事のうまいリーダー的存在として写されていると思います。

     毛利家家紋

     

    そして,「沖田畷の戦い」

    この戦いの中心は 龍造寺隆信。本家の当主が死亡したため20歳の若さで本家の跡をつぎます。しかし,本家の家臣たちが不満を持ち,反乱をおこさんともしていたため,大内義隆に従属することになります。

    ところが大内氏が家臣の陶 晴賢に謀反を起こされ,滅びてしまいまい,隆信自身も追い出されてしまいます。一から再起をかけ,徐々に力をつけて,肥前の国を取り返します。それでも他国よりは劣るため,大友宗麟に従属し,徐々に領土を広げていきます。これは主(大友宗麟)の許可なく広げたため主君の反感を買ってしまい,大軍で攻め込まれてしまいます。しかし,優秀な部下鍋島直茂の活躍でわずか5,000人で60,000もの大群に夜襲をかけて勝利を治めます。勢いにのって肥前から薩摩まで領土を伸ばし始めると,隆信はだんだん怠けなじめてしまいます。今度は60,000もの大軍で島津との戦となりますが,数に物をいわせて力任せに攻めたところ,島津と有馬軍わずか8,000人に沖田畷(島原)に罠で誘い込まれ,命を落とします。部下の鍋島直茂の諫言を無視して,独裁者になっていった結末のようです。

    これは龍造寺隆信が力のないときはあれこれ知恵を絞って,力をつけていきますが,今度は力をつけてくると努力をせずに怠けはじめ,部下の諫言に聞く耳を持たず最後は力のないものに打ち取られてしまう。力をつけても努力と部下の意見にも耳を傾けることへの裏返し(リーダーの失敗)が映し出されていると思います。

     龍造寺家家紋   島津家家紋

     

    こうしてくると時代こそ違え,参考になることが多々あり,歴史って本当に奥が深く,ためにもなり,面白いなとつくづく実感します。

     

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